デスカフェとプロレス観戦、どちらも好きだとおかしい?

生き方

死について話し合うことと、生きることを楽しむエンターテインメントは両立する

死について話し合うことと、生きることを楽しむエンターテインメントは両立する

と、私は思う。
ことの発端は、平成30年度最後となった、デスカフェ開催の翌日。静岡に興行に来たプロレスの試合を観に行ったことだった。
プロレスを観に行くのは2回目で、和気あいあいとした団体なのが気に入っている。親に連れられてきた子どもが、試合後の選手やレフェリーにまとわりついたりしている場面をよく見る。全体的にほほえましい団体だ。

デスカフェとプロレス、両方の予定の話をしていたら、ふと人から「死について話した次の日は、プロレスかぁ。」という言葉が出た。
なるほど、うまく言い表せないけど、なんだか相反するような気がする。

真剣な対話のあとに、いわゆるエンタメと呼ばれるものが来ると、両極端なような気がする。もしかしたら、不謹慎な感じもあるかもしれない。

少し重い「死」というテーマでの対話の場のあとに、そんなことを忘れたかのように、「キッドーー!行けーーー!」とか叫ぶのだ。

お笑いライブに行っても、相反する気がする。あと、野外フェスも相反するかも。

でも、本当にそうだろうか。

生きていくことと、死んでいくことが、「地続き」だとするならば。

デスカフェとプロレスが両立できないなら、逆に「生きるって何だろう?」とも、思う。私は、24時間小難しいことばかり考えていられる性分でもない。

音楽を聴くことが好きだ。それに合わせて、一人で部屋で踊るのも好きだ。コーヒーが好き。甘いものが好き。

寝転がってぐうたらするのが好き。そのまま、寝るのはもっと好きだ。

でも、デスカフェもやりたいことの一つなのだ。

みんなで、もっと生きることや死ぬことについて話したい。元気なうちに、周囲に自分の意向を伝える機会を作りたい。

親子や夫婦で、気軽に話し合える場所を作りたい。理由はいろいろある。

生と死について臆面もなく話せる社会になるといい。

去年、スイスの介護ホスピスに努めるミツコさんから聞いたある会話が、心に残っている。
スイスの人たちは、会話の中にすぐ「死ぬ」というワードが入ってくるそうだ。
ホスピスに入居している人同士がお互いのタトゥーを誉めあっているとする。「そうだろ、いいだろ。まあ、死んだら灰になってしまうんだけどな。」とか普通に言うらしい。

最近、ようやくきちんと言葉になってきたのだが、「生と死について気軽に話せる場」ではなく「生と死については、臆面もなく話せる場」を作りたいと私は思っている。
「誰もが、いつかは死ぬんだから、今を大切にしようよ」と軽く言える社会を作りたいと思っている。

「いつか死ぬんだから、旅立ち方も自分で決めといたほうがよくない?」とも、軽く言える社会だ。

そうなったとき、デスカフェとプロレス観戦というエンターテインメントは、何の違和感もなく、横並びになると思う。

「昨日、観たプロレス最高だったわー」と言ったら、「今、観れてよかったね。死んだら観れなくなるよ。」と返すような会話とともに。

そして、またプロレスを観に行く。

なーんて、ただ自分のプロレス観戦を、正当化したいだけかもしれない。

今日も、ご清聴ありがとうございました。

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