準備のプロフェッショナルになる
結婚してようやく一年。
今日はお世話になっているお寺さんのお施食(おせじき)であった。
義父と夫(二人とも一休さんが大人になったようないでたちである)と私でお手伝いである。参加というより運営側だ。
たくさんの檀家さんがお寺に集う、年に1~2回のまたとない機会でもある。
お施食とは
ちなみに施食とは、施餓鬼とも言い、地獄でものを食べられない餓鬼にお経の力で食べ物を与える儀式なんだそうだ。
ご先祖様が帰ってくる前の慈善活動といったところか。要はチャリティーコンサートである。(あくまでも個人の感想です。)
本番を成功させるために
私は学生の時分、京都大学西部講堂を会場にした音楽フェスの学生スタッフをしていた。
なので、自分で言うのもなんだが、こういうのは慣れている。
入り口担当になれば、入場客のチケットをもぎり、パンフレットを手渡す。再入場の人の手の甲にスタンプ押したりしてね。
控え室担当やケータリング担当になれば、裏に回ってきてしまったお客さんを会場に返したり、ご飯をひたすら作ったり・・・、
そして、なにより少し手が空いたら舞台を見に行けるのがなにより楽しみだった。
話がそれたが、本番が滞りなく行われるためには、下準備と当日の進行に合わせたスタッフのはたらきが必要不可欠なのである。
運営スタッフの役割
それから十数年、舞台はお寺となり、私は檀家さんの携えるお布施を受け取っては「お盆のパンフレット」と、お土産のお菓子を手渡している。
はたまた、控え室担当として、十数人の一休さんたちに緊張しまくりながらお茶を出す。
一休さんたちが本堂と言う名の舞台に出たら、茶托と湯のみを下げて、洗いまくって、拭きまくって、しまいまくって、
「フーッ!」と一息つく。舞台を見に行く余裕はまだない。余裕はないのである。
本堂の方から終わりのリズムが聞こえてきたら、冷え冷えのペットボトル飲料と、熱々のおしぼりを控え室の各席に置いて回り、冷房は24度まで下げて部屋をキンキンに冷やして、
熱狂の渦から戻ってきた一休さんたちを迎える準備をするのである。
今の私は、指示待ちの姿勢
ちなみに、この一連の準備は、すべてそのお寺の奥さまの優しい指示によるものである。
私は何一つ自分では考えておらず、それゆえ、私の存在とか立ち振舞いが失礼に当たったらどうしようという、無駄な不安と緊張感の中で、ただただ言われたことを言われたとおりに、多分できていないだろうが、やっただけである。
今年の夏はまだ始まったばかりで、夫のうちのお寺でも、同様の会がある。去年はヘラヘラ挨拶と自己紹介だけしていればよかったが、今年は運営スタッフとして、バリバリやっていかねばなるまい。
まずは、ふすまの開け閉めを、しゃがんで中居さんみたいに両手を添えてやること、お茶もなんかそれっぽく失礼のないようにお出しすることから始めなければ。
スタッフの道はまだまだ険しい。
準備のプロにいかにしてなるのか
というのが、去年の今頃の話。
もう三回目の夏だ。今日は、うちのお寺の施食会であった。
お茶は、相手の左から出す事。お膳と同じように、お茶は右側、お菓子(ご飯的なもの)は左側だというのは、この一年で教わった。
ただ、お茶を出した後には、「スッ!」と日舞っぽく立ちあがるの理想だが、いまだにグラッとしている。
それに加えて、お手伝いに来てくれたお坊さんに対して、「今日はよろしくお願いいたします」と言うところを、
思わず「今日も一日よろしくお願いいたします」などと、職場の朝礼の〆の言葉のようなことを言ってしまった。
「何時まで、うちの寺に滞在させる気なんだろう・・・」と自分で言っておいて、困ってしまった。
それでも、去年より少しこなれてきた。法要を少し見に行く余裕も生まれた。
そして、思い出した。去年はテンパリ過ぎたので、それを解消すべく、手順を逐一メモした大事な紙の存在のことを。
あれはどこにしまったのだろうか・・・。さっぱり見当がつかないが、探さねばなるまい。今年、その紙の存在のことを思い出していれば、もう少し心の余裕が持てただろう。
しかし、後悔しても、もう遅い。法要は、そろそろ終わりというところまで来てしまった。本堂から終わりのリズムが聞こえる・・・・。
来年は、そのメモを携えて、事前シュミレーションを重ねれば、更に準備のプロへの道を一歩踏み出すことになるだろう。
『準備7割』とはよく言ったものである。
私は、まだ『準備3割』くらい。これからの伸びしろが半端ないのである。
今日もご清聴ありがとうございました。