「蓮の花のように生きる」を読んだ感想

ウユニ塩湖

私が瞑想や座禅に目覚めたきっかけ

 きっかけは、老人ホームに勤めていた時に通勤経路にあったお寺で定期開催されていた「坐禅会」でした。そばには大きなカトリック教会や新宗教の施設もあって、さまざまな信仰が入り混じっている地域。

 その中でもひときわ大きなお寺さんで、とても清々しい雰囲気を持っていました。檀信徒でもないのに、月に1回坐禅のためにお寺に通いました。その地域では唯一の文化財になっている歴史のある木造のお堂が会場です。電気照明のない暗闇の中、ロウソクの灯火が仏様を照らします。

 自分の座禅は本格的と言うには程遠く、主催のご住職の案内を聞いて座禅に入るものの、いつも寝ているのか起きているのかわからないようなありさまでした。だけど、「座禅」「瞑想」をいう奥深いテーマはいつも心に残っていました。なので、坐禅会に通っていたお寺のある地域を離れてからも、個人的につかず離れず座禅や瞑想・ブレスワーク(呼吸法)を続けています。

瞑想のその先にあるもの

 今回、この本を手に取ったのは、自己流でやっている坐禅や瞑想、ブレスワークなどが少し行き詰まり始めたからです。お寺のある地域を離れてからは、人に聞いたりYouTubeで指南動画を見たりしながらやってきました。

 けれど、次第に「深い眠りを得たいから」「疲れを取りたいから」と、自分の体のマイナス部分を取り払いたいために、瞑想を行うという『瞑想の手段化』が起こってきました。

 睡眠の質がよくなる、疲労が軽くなる等、瞑想の効果を実感する一方で、「何かを解決したいから、瞑想」だと、ただ静かに呼吸を感じる、身体の機微を感じる瞑想とは遠く離れていく気がしてきました。

「本来、瞑想とか坐禅ってなんだっけ?」と立ち返りたく、この本を手に取りました

ヨグマタ相川圭子さんとは

 一度、テレビ番組「マツコの知らない世界」に出演されたことがあります。5000年の歴史を持つヒマラヤ秘教の正統な継承者ということで、何度も平和を祈るために公開瞑想をインドで行っています。

 その平和を祈る姿勢がインド国民の心を打ち、インドではヨグマタ(ヨガと瞑想の母という意味)という呼び名で親しまれています。

「蓮の花のように生きる」の感想

 いくつものトピックの中から、私が「瞑想とは、一体どういうこと淡々とする行為なのか」ヒントになったトピックを紹介していきたいと思います。

体の感覚を「見ること」が、気づきのはじまり

 今、自分の身体を見たときに、どのようなこわばりや違和感を持っているのか。それに気づいて対処するか、体のメッセージに気づいてもそのままに順応して、重症化してから対処するか、その時の環境により人それぞれですが、この本では「その場で気づいて、その場で調整していく」ことについて語られています。

 人間、働いていたら風邪をひいても疲れが取れなくても、多少の無理が必要な時もあります。ただ、そこに気づいて早めにケアしていくか、限界まで無理して重症化していくか、どちらかだと思います。

 「 できることなら早めにケアをしていく方を選びたい。」と、誰しもそう思うと思いますが、ソレができないことも多いのではないでしょうか。皆さんそれぞれ忙しい毎日を過ごしている思います。私自身「そうは言っても、今は目の前の仕事をしなきゃ。」と身体の不調を押さえ込んで、仕事に邁進することもありました。

 でも「なぜ瞑想するのか?」に立ち返れば、「その場で気づいて、その場で調整・ケアしていく」という当たり前のことを、ブレずにしていきたいから。当たり前だけど、大切なことがらを思い出させてくれました。

本当の気づきは次々と湧き上がってくる思いを「手放すこと」から

 「純粋な心で気づく」ことがはじまりで、それは起きる現象がただあるがままに映し出されるさまだと、本では説明されています。見たものに対し、好きとか嫌いとかリアクションが起こり、それについて分析したり考え込んだりすることは、「気づき」とは言えません。「気づき」とは、そのような溢れ出る思いを手放していくことだというのです。

 私の場合、瞑想を始めるといろいろな考えが頭に浮かんできます。それは捨てては思考が生まれ、それを捨てては思考が生まれ、よくこんなに色々考えつくなと自分で感心することもあります。

 でも、考えを捨てても新たな思考がでなくなるような状態にはなかなか到達しません。そこに捨てては現れる思考があること、それを分析したりジャッジせずに、手放しいてくこと、それが「気づき」への道だと気づかされます。

 禅語でも「明鏡止水」という邪念がなく澄み切って落ち着いた心を表す言葉があります。座禅も瞑想も、何かをリカバリーするために行うのではなく、ただそこに落ち着いた心があること、それを感じるだけの行為なのかもしれません。

「空っぽの状態」を増やしていくことで「本当の自分」を知る

 実は毎月「般若心経」を写経している私ですが、いまだに「空」がなんだか解っていません。般若心経では、「空が真理」であり、「実はそこには何もないこと」「あなたの感じる、味、香り、触り心地もすべて空です」と記されています。ところが、毎月、般若心経を写しながらも、当たり前ですがお教の理のようなところには到達しません。いつも思うのは「空・・・?ないなら今感じているこの五感の感触はなんだろう?」といったところです。

 それでも、私の中にも「空」のイメージはあります。それは、誰もいないウユニ湖のような風景です。空も水面も澄みきって自分ひとり、その姿が水面に映るような風景が浮かびます。それが果たして合っているのかいないのか・・・誰も知るよしはありません。

ウユニ塩湖
ウユニ塩湖(ボリビア)

 この「空」について、本ではこのような説明がされています。

時間と空間を超えたところ・・・時間がストップしたかのような

昼と夜の境目・・・時間もないし心もない・・・

「蓮の花のように生きる」ヨグマタ相川圭子

「え?心もないの?」と読んだ直後はすこし驚きました。けれど、心があれば何かしらの思考を生み、またそれを捨てたり手放したり、いつまでも思考が出てきます。

 私は瞑想中に「(いろんな思考を手放して)ようやく静かになってきたぞ」と感じられることがたまにあります。でも、その境地になったとたん、誰もいなくなった場所でひとり動き回りたくなるような達成感を感じるのです。小学校の休憩時間が終わり、みんな教室に帰ったのに、ひとりで校庭に残って、遊具を独り占めして遊びに興じる子どものようです。

 雑念は取り払っても、心がワクワクしてくるのでは、結局「思考はまた現れ」「それを手放していく必要」が出てきます。私の場合、ここからあと一歩抜け出すことができずにいます。

 心の中のことを、文章で説明するのは難しいのですが、「本当の瞑想はこうじゃないのだろうな」と思いながらも雑念がなくなった静かな遊び場のようなところで、ずっと過ごしてきました。

おわりに

 今回、この本を読んだことで、自分の瞑想やブレスワークの実践をとおして、実践した方がよいこと、その上で感じられるであろう状態が示された気がします。

 今まで、こうして指導する人の著した本や体系的なノウハウに触れずに来たので、「瞑想することで、こういう心のありようを目指す」ことについてまとめられたこの書籍を手にとったのも、何かの縁だったのだと思います。

 著者の相川さんは1985年からヒマラヤでの瞑想をはじめ、私の生きている期間と同じくらいの年月を瞑想に捧げています。かたや、生活の片手間での瞑想実践では得るものも成長のスピードも違うかもしれません。

 ただ、瞑想という形のない行為だからこそ、継続するかしないかも本人に委ねられています。「私はこれからも細く長く実践していきたい。もっと自分のやり方を確立していきたい。」そんな思いを改めて持ちました。

 時には立ち止まり、人に習ったり、このように本を読んだりすることで、新しい風を取り入れながら、自分の瞑想という行為を磨いていくことが、これから成長していく上で大切になってくるのだと思い至りました。

 ここまで読んでいただきありがとうございました。


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