・結論「大人も子どもも関係なく『生死の話』はできる」
「死と生」というテーマは、大人も子どもも関係なく、話し合える。
そして、子どもたちのほうが、わかったふりをせず、言葉の一つ一つを吟味して、「生と死」に向き合っているのを目の当たりにしました。
・年齢より大切なのは、「生死」と言うテーマにどう向き合うか
今回のデスカフェでは、子どもたちの参加がありました。子どもも交えて、もしバナゲームをやってみると、そこには深い哲学の世界が広がっていました。
今を精一杯生きる子どもたちにとって、「死ぬ」ことは非日常。
カードゲームをとおして突きつけられる、死と向き合わなければいけない状況に、子どもたちは、戸惑いながらも真剣に取り組んでいました。
「いくいく考えていく必要がある」「考えておいたほうが良い」と日々の生活の中での実感をとおして、頭で考える大人。
「もし、半年後に『自分』が死んでしまうとしたら、どうしよう」と、自分に置き換えて真剣に考える子ども。
お互いが交流しながらゲームを進めることで、カードの選択肢の言葉をより深めて考えていくことができました。

お寺の玄関に集うお地蔵様
・子どもたちともしバナゲームをしてみたら、本質的な問いがたくさん出てきた。
今回は、グループに分かれて、一人5枚ずつ配った後に、カードの山をめくっては、そのカードが自分にとって必要か選んでいくもの。自分が死ぬことになるとして、本当に必要なカードだけを選んでいきます。
子どもたちがひとつひとつのカードを吟味しながら進めると、大人が思いもしない問いが飛び出して来るのです。
「人としての●●が尊重される」というカードでは「●●ってなに?」という問い。
「祈る」というカードでは、「祈るって意味わかんない。何に祈るの?」という問い。
はたと聞かれると、「え?何って、神に祈るのかな・・・。うーん、何に祈るんだろうねぇ」と、答えにならない言葉が頭に浮かんでしまう自分。
「分かったようでいて、何もわかっていないのは大人のほうだ」、ということをしみじみと感じました。
でも、グループでは「私だったら、こういう状況の△たちの無事を祈るね」、「××や○○に祈るとは限らないかもしれないね」と様々な意見が飛び交います。
大人だけでゲームをするより、子どもと一緒だからこそ、言葉の意味を深く深く掘り下げることができて、一枚一枚のカードを吟味して、一人ずつ悩みながらカードを選んでいきました。
・「主体的に考える自分」さえあれば、年代を超えた対話ができる
今回のデスカフェで「生きること・死ぬこと」そして「自分の人生で大切なもの」を語るのには、大人も子どもも関係ないということを、実感をもって学びました。
むしろ、子どもたちの、カードの選択肢に関する純粋な問いが、カードゲームをより味わい深いものにしてくれました。
分かったように語らないこと、その理解は果たして正しいのか、自分に問いかけることが必要だなとも、思いました。
カードを目の前にして「うーん、どうしよう」「そういう意味なら、このカードを欲しいかも」「え?こんなカードの状況があるの?」と、子どもたちが、うんうん真剣に悩みながら、カードを選んでいく姿は、とてもかわいらしくて、いじらしくて、その純真さといおうか、素直さに胸を打たれました。
おそらく、クラスのこと、友達のこと、クラブ活動のこと、など学校生活の中でたくさん気になることがあったと思います。
そんな中で、デスカフェに参加してくれて、少し非日常な環境で自分の人生について思いを巡らすことができる時間を共有できて、主催の自分の方が本当にありがたい気持ちでいっぱいになりました。
また、機会があれば、たくさんの子どもたちに来てもらえる場にしていきたいと思います。
ご参加のみなさま、ありがとうございました。

今回のデスカフェの案内板
・次回デスカフェの案内
次回のデスカフェは、10/19(水)19時から、静岡市葵区城東町のハピスポさんの二階会議室で行います。